「平成」という時代のこと
先日、おやつにと買った不二家LOOKチョコレートのパッケージに「あの頃、何してた?」という文字が躍っていた。
そーいや平成という時代も、そろそろ終わるのだ。
ということで、自分自身の平成史ってヤツをまとめたくなった。
完全に気分です(^^;
お暇でしたらお付き合いください。
(予備知識:私は昭和50年1月1日に静岡県伊東市で生まれました)
天皇陛下の崩御により、昭和が何の前触れもなく終わり、突如として平成という時代が始まった。
小渕さんの「平成」という文字を掲げるシーンは有名ですね。
世の中は自粛ムードで、TVも追悼番組ばかりで、あまり雰囲気は良くなかったかも。
そのころ私は中学2年生の3学期。
同級生が「平成元年!平成元年!」って、バカみたいに連呼していたのを憶えている。
中学生男子ってそんなもんだよなー。
程なくして学年が上がり、中学3年生となった。
消費税が始まったのもこの年だったっけ???
伊東市沖の海底噴火もこの年の夏のこと。
長い間群発地震があって、そして海底噴火の合わせ技一本。
震源地は私の実家の真下。
文字通り直下型地震。(ソースは建築士だった大叔父が持ってきた図面)
中学生最後の町内会のお祭りも吹っ飛んだ。
伊集院光の深夜放送を聴き始めたのも、この年の寝苦しい真夏の深夜のこと。
以来、今現在に至るまで、ずっと聴いてるという。
平成2年に神奈川県小田原市にある私立高校に入学。
初めての電車通学。
通学に普通に1時間以上かかったなぁ。
軽いカルチャーショックを受けちゃうくらい、視野も広がった。
まさか、伊東弁が通じないとは!
5月に虫垂炎による入院及び、身体に初めてメスを入れる手術。
1週間ほど学校を休んだっけね。
それに伴い、学校の勉強が全くわからなくなり、早くもついていけなくなる。
特に数学が酷かった。
けど、このときの入院先に高校の友人たちが、遠くからわざわざお見舞いに来てくれたのは嬉しかったなぁ。
おかげさまで、今でも仲良くさせていただいてます。
山梨県にある高校の女子と文通してたのは平成3年のことだったかな?
夏休み中に部活の合宿先の河口湖で仲良くなって、そのまま連絡先を交換したんだっけかなぁ?
今と違ってケータイやメールなんて無い、アナログな時代。
文通ってところに時代を感じる。
青春してたね。
もう、苗字も忘れてしまったけど、あのコは現在何処で何をしてるやら…。
槇原敬之の「どんなときも。」ってこのころだよね。
アルバム買ってウォークマンでヘビロテしてた。
ウォークマンっつってもアレだよ?
媒体はカセットテープで、オプションでFMラジオが聴けるみたいヤツだよ。
このころも、全っ然勉強しなかったから、高校はなんとか卒業できたものの、当然大学受験には失敗し、それでも横浜市の予備校に新幹線で通う日々。
精神的に追い詰められてて、やりたいこともできず、やっぱし平成4年、平成5年あたりは私の中の暗黒時代といえる。
それでも、通っていた予備校では私の席の隣で、いつも私と仲良くしてくれた、一つ年上の方がいて。
他愛もない、いろんな話をしたり、いろんなことを教えてもらったり、予備校サボって、いろんなところへ連れてってくれた。
傍から見たら、普通に付き合ってる様に見えてたのかもね。
そのくらい仲良かったと思う。
しかし、肝心の勉強はホントにしなかった。
予備校の講義に出ないで、映画「ジュラシックパーク」見に行ったこともあったっけ。
残念ながら(勉強してないから「当然ながら」か)大学には入れなかったけど、専門学校に引っかかり、横浜で一人暮らしを始めた平成6年。
自由にのびのびとやってたけど、高熱が出て家で寝ていても、当然ながら誰も面倒見てくれないという心細い出来事があり、それは結構厳しかったなぁ。
両親や、身近にいる人のありがたみが少しわかったのもこのころ。
あと、予備校時代にいつも仲良くしていただいていた方と新横浜の街中で偶然会ったのは、今考えてもちょっとした運命だったのかも。
聞けば春から、新横浜にあるラーメン博物館に勤務し始めただとかで、ちょいちょい顔出してはラーメン食べに行ってた。
今でも年賀状のやりとりくらいはしてます。
そーいや、このころ前年の冷夏で米不足って言ってたね。
キロ100円くらいで安いから、コンビニでタイ米買って食べてた。
とあるバイトを、向いてないって理由で1日でクビになった経験をしたのもこのころ。
余談だけど、この時代ってまだまだテキトーだというエピソード。
銀行の普通預金の口座を作る祭、身分証明書はレンタルビデオ店の会員証とかでもOKだった。
平成7年でやっと二十歳か?
一人暮らしをするために住民票を横浜に移してしまっていたため、横浜の成人式に出席。
知ってる同級生なんて当然誰もいない、寂しい成人式だったのを憶えている。
で、あの阪神淡路大震災が来ると…。
たまたま寝坊してしまい、もう学校には間に合わないし、とりあえずTV点けたら目に飛び込んできた被災地の映像。
寝ぼけていたこともあり、これは日本で起こったことじゃないとさえ思った。
で、身近に誰もいない寂しさを感じたのと、大きな災害に遭ったときに一人だと嫌だと思い、一人暮らしをやめて実家に戻って、2月から新幹線通学を始める。
程なくして春休み中の地下鉄サリン事件。
正に世紀末ってカンジがした。
あとはそうね「タクティクスオウガ」が発売されたのは、この年の10月。
今でも私のベストゲームに君臨しているのだ。
専門学校を卒業し、専門院に入学。
いっちょ前に研究室というものを与えられたけど、やっぱし勉強はしなかったねぇ。
同級生の仲間たちと、毎日研究室に入り浸ってたっけ。
「自然気胸」という病気で順天堂大学病院に入院したのもこの年のハズ。
約3週間ほど入院したものの、快方に向かわないため手術した平成8年。
身体にメスを入れたのも、これが生涯2度目のこと。
秋に伊東市役所の職員試験の筆記試験に合格したけど、面接で普通に落とされた。
なにがマズかったんだろか…?
あ、もちろんコネは無かったよ。
学校の講義を抜け出して、横浜のヨドバシカメラに「ファイナルファンタジー7」を買いに行ったのは平成9年。
発売日の1月31日のこと。
研究室では卒業研究を進め、家ではFF7を進めてた毎日。
テキトーに作った卒業研究だったものの、無事に専門院は卒業出来た。
実にいい加減なものである。
(ちなみにリアルオーディオを使用したポータルサイトを集めて作るみたいな、今考えればクソみたいな卒業研究だった)
4月に三島市にあるソフトハウスに入社し、毎日三島市まで通ってた。
当時、初任給に手取りで24万円くらいもらってたんじゃないかな。
早いときは定時で帰れたものの、終電で帰る日々もあったと思う。
平成10年。
お給料の面では優遇されていたので、お金は貯まるものの、使う時間がないという現実と、元々の怠け者気質が相まって、私に富士市への転勤話が持ち上がったところでアッサリ辞職してしまう。
会社というか、社長に対する不満も溜まっていたし。
貯金も結構あったし、失業保険をもらったりで、なんだかんだで半年くらいは堕落した人生を送っていた。
発売日にNINTENDO64の「ゼルダの伝説 時のオカリナ」を普通に買ってたしね。
働く気ゼロのダメ人間だったこのころ。
そんなダメ人間を拾ってくれたのが叔父。
叔父の紹介もあって、平成11年の1月に伊東市内にある某社系列の整備工場の事務員として、バイト?みたいな形で採用された。
とはいえ、今から20年も前の一般的な会社なんて、まだまだパソコンを使える人間なんて数えるくらいしかなく、私は結構重宝がられた存在だった。
お給料は安かったけど。
このころから「2000年問題」みたいなことが騒がれ始め、私は某社の本社へと異動。
あ、ちゃんと入社試験も受けたよ。
伊東駅前の窓口と熱海市にある保養施設での研修をそれぞれ1ヶ月ずつ受け、翌年の平成12年に同社の電算室に配属になり、自社プログラムの作成保守運営管理なんかを任されてた。
あと、このころってなにしてたっけ?
高校のころの友人たちと、定期的に飲みだしたのがこのころかな。
時系列が曖昧だけど、平成13年から平成16年までの間は、初めて自分で車を買い、人生初めてのオンラインゲームを始めて新しい友だちの輪が広がったり、毎週末になると決まったお店に夕飯を食べに行き、ボウリングをやらビリヤードやらをやって、ファミレスで休憩して力尽きるみたいな生活をしてた気がする。
飼ってた犬が亡くなったのがこのへんだっけ。
あれは悲しかったなぁ。
しばらくロスってた。
知らずに行ったけど、祇園祭当日に京都旅行にも行ったな。
やけに混んでるけど、なんかあるのか?なんて思ってたら、祇園祭だったという。
結婚したのが平成17年。
丁度私が30歳のとき。
南伊東にアパートを借り、自転車で会社まで通ってた。
バリ島に新婚旅行に行こうとしたら、直前に爆破テロがあって危険だからって、行くのを止められたんだっけ。
結婚した翌年の平成18年。
以前治療した歯が、医療ミス(?)か何かで治癒してなく、歯茎内の骨の中に膿が溜まる「歯根嚢胞」という症状が出て、入院手術という状況に陥る。身体にメスを入れること人生3度目。
前年行けなかった新婚旅行の代わりに沖縄旅行へ。
離島の小浜島まで足を伸ばす。
で、平成19年、平成20年あたり。
このあたりから特筆することも皆無だなぁ。
それだけ安定してたってことだろか。
いや、祖父が亡くなり、両親が別居を始めたのもこんくらいだったか。
それと、健康診断で尿酸値が上がり、少し運動をしないと!ってことで、自転車で少し大回りして会社から自宅まで帰ったりしたっけね。
平成21年に伊豆市の営業所に転勤になり、平成24年に辞職するまで車通勤。
営業所では、宿直勤務みたいのもあったし、近隣の小中学校に出入りしたり、旅館なんかに集金しに行くなど、慣れない業務で精神的に不安定なときもあったかな。それでも、仲良くしてくれる人はいたし、新しい出会いや、楽しいこともいろいろあった。
地震が起こった日、丁度宿直の日に当たって、一晩中眠れなかったのを憶えている。
あの日本中がパニクった状態は、もう味わいたくない。
で、子どもが生まれたのが平成23年の12月。
私が生きた証がこの世に残ったことに喜びを感じたっけね。
前述したけど、平成24年に辞職して、そのあとすぐに仕事が見つかるだろうと高を括っていたら、全然見つからなくて結局10ヶ月くらい、みっともない無職を経験した。
その節は多方面の方々にご迷惑をおかけしました。
退職金と失業保険でなんとか食いつなぎ、平成25年に伊豆高原にある会社に潜り込む。
そのときは既に就職活動に疲れていたし、とりあえずどこでも良いから就職してしまえ!という様な気持ちだったと思う。
しかし、そんな生半可な気持ちだと、仕事なんて長続きしない。
3年ほど勤めたが、後ろ足で砂をかけて逃げる様に会社を辞職。
そこから数ヶ月間フリーターという形で一から出直した。
くしくも、祖母が亡くなった後で良かった(^^;
もし生きてたら、お小言を言われまくったに違いない。
いつか私が死んだら、天国でしっかり説教受けますので、も少し待っててちょーだい。
あ、あと、平成25年にフィットさん買ってたわ。
消費税が上がる前に買っちゃえ!って勢いもあって買ったんだった。
平成28年以降は、今の職場でボチボチと。
休みがカレンダー通りというのが、普通に嬉しい。
今まで渡り歩いてきた会社が、普通じゃない会社ばかりだったし。
子どももなんとか小学校に上がり、今年は小学2年生。
いろいろ問題はあるけど、本人も本人なりに頑張っている。
私も中性脂肪もなんのその。
今では地道にやってます。
駆け足で平成を振り返ってきたけど、ポンコツな人生なりにいろいろあったね。
自慢できるもんじゃないけど。
約4500文字以上にも及ぶ駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
令和になってもよろしくね。